◎ 難しい教育
人間は何もわからないまま親や家族、親族などの身近な関係から知らず知らずのうちにたくさんの事を読み取り学びます。やがて保育園や幼稚園などの同世代の友人関係から様々な社会性の情報を得て他者と比較する事で自分の立ち位置を自然に学習します。個性や思考能力の違い、得手不得手などの能力差に気が付きます。何でも出来るように見える人は「すごい!」と思われ、あまり出来ない人は倦厭されていきます。実際の所、何でもできる人はいないのです。それぞれの得意な事、苦手な事はあるのです。その中でまんべんなく程々にこなしてしまう人は重宝されるのです。社会は「平等ではなく、常に格差や順位で縛られている」のが現実だと思っています。
現在の流行は「誰でも平等論」でしょう。私はこの考えに少し疑問を感じています。いつの時代でも順位付けはあるのです。それは得意な技術、学問、それぞれにおいて個人の能力は異なります。個人的な能力差の上に成り立っているのが「社会における格差」です。どんなに優れた能力を持っていても育った環境や経済能力など、子供自身の能力とは無関係に起こる格差が付いてきます。つまり全ての人が自分の能力を最大限に活かせることなどはあり得ないと考えているわけです。生まれた時点で様々な格差が出来ているのに誰でも平等と唱えてしまったら悲しいです。まず「平等」「当たり前」「普通」の定義とはとても不確実な表現です。私にはこの定義を明確に表すことは出来ません。
自分の子供が何が得意で、何が苦手なのか…見ていたらわかります。
・ 苦手な項目をどのように興味を持たせるのか?
・ 出来るようにやる気を向けさせるのか?
・ なんの目的で勉強が必要なのか?
これらを大人が子供に伝えるのは本当に難しい事です。
恐らく「正解」はなく、個人にあった方法を周囲の人たちがサポートして考えさせる定義が良い方法かと思います。
「教育」は永遠のテーマの一つなのかもしれません。

◎ 私の子供の場合

私の子供が高校受験で色々と手続きやら悩んでいたこともあって1月・2月は他に手を付けられませんでした。
詳しくは述べられませんが、今までさんざんサボっていたつけが回ってきて本人も受験の厳しさ、社会での格差を体験して初めて何か気づいたようです。遠回りしたかもしれないですが何かに気づいてつまづく事はいつだって遅くないような気がします。怖いのは
・ 気づかない事
・ 気づいていても顧みない事
・ 考えを改めない事
・ なかった事
にしてしまう事です。これをしてしまうと困難にあっても一人で立ち上がれずに責任転嫁や八つ当たりをして成長できなくなります。
失敗に気づき、反省し、原因を認識して同じ間違いをしないようにさせることが大切なのではないかと私は考えています。
そうじゃない、と思う方もいるかもしれません。
しかし大人になって振り返ると子供と同じころの自分は大人の自分を想像できたでしょうか?
思い通りにならなかった人の方が大半ではないですか?
未来は夢の通りにはならず、時代と共に変化し続けていかなくてはいけないこの世界。
壁にぶつかったときに色々な考え方をして対応する能力こそがこれから必要になってくると思います。
多種多様な思考能力、柔軟な対応力。
凝り固まった一辺倒な考えでは新しい波には乗れない、と感じた今日この頃です。