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犬と猫が日本からいなくなる日

更新日:2022年9月9日

 


最近のネット記事で日比谷公園から野良猫がいなくなった、というような記事を目にした。これを読んだ方はどう考えるだろうか?「野良猫がいなくなって良かった!」「ボランティアのおかげだね!」と感じる人が多いのだろうか。私は違う。背筋が凍りついた。ついに始まった。完全排除が。「可哀想な犬や猫を無くす」==「自然な形の犬や猫がいなくなる」ということだ。そう感じる人はもうこの世にはいないのだろうか?


「犬や猫がいなくなるなんてことはあり得ないでしょう」と考えている人は多いと思う。まさか日本から絶滅危惧種になるなんて・・・。多くの人は感じてもいないのだろうと思う。


一獣医師の見解、あるいは戯言と思われてもいいが私が生きてきた人生の中で感じている危機を残さずにはいられない。世界で私しか考えていることだとしても残さずにはいられないほど危機感を感じている。ここ十数年で激動の変化を遂げていることに忠告しておきたい。地球上の生物の在り方をいかに人間のエゴでコントロールして変化を遂げてきたかを後世に残さねばならない。


レッドデータに犬と猫が入るかもしれない


今の世界でレッドデータと呼ばれる絶滅危惧種の生物がどれだけ存在しているか気にしたことはあるだろうか?そして日本固有種と呼ばれていた生物のどれだけが日本からいなくなってしまったか気にしたことはあるだろうか?多くの人は調べ流どころか気にもならないのだろう。余程メディアで叫ばれたとしても「そうなんだ」くらいにしか考えないだろうと想像に難くない。これに犬と猫も入るかもしれない。「そんなことあり得ない」とあなたは言い切れますか?


 

環境変化は人間のエゴで変化しすぎた


SDGsという世界


現代の世界は私の幼少期ではあり得ないほど高度な文明と異常なまでに清浄化された世界となっている。子供の頃はこんな近未来な生活を自分が生きているとは考えてもみなかった。便利な道具を誰もが持って快適に生活できるなんて想像できなかった。つまりはプラスチックや石油資源、原子力などの科学と化学を組み合わせ人間が生活を豊かにできる世界だ。いかに人が住みやすく、安全で過ごせる世界を目指してきたのかは言わずもがなだが、そのために多くのものも犠牲にしてしまい失ってしまった自然の形のものは取り戻せない。つまりいかに人の生活だけを豊かにしようとしたエゴで地球上の環境を変えてしまったか?そのツケで地球上の環境変化は著しく、オゾン層の破壊から始まり地球温暖化、異常気象が起きて反対に住みずらくさせているのが我々人である。あまりにも自分勝手に過ごすことに重点を置きすぎた結果なのだ。地球の崩壊を少しでも食い止めようとするのが今の世界が推進しているSDGsなのだろう。しかし地球全体の規模でなし得ないとかなわない目標を嘲笑うような戦争や紛争などの人災に加えて地震や気象などの天災が多い現在、もう悲観的な想像しか浮かばないことが嫌になる。


動物愛護団体がきちんと機能することの意義


「殺処分ゼロに!」という広告を最近目にするたびに複雑な気分に襲われている。

同じく「野良猫の去勢・避妊手術」を掲げて可哀想な猫を無くすという極端な考えにもいささか疑問しか湧かない。

私が獣医師になった当初はもちろん野良猫がたくさんおり交通事故で道端で倒れていたり、仔猫を保護したけど飼えないと持ち込まれたり飼い主を見つける暇も貰い手もない状況だった。助けた命を捨てるわけにもいかず大抵病院に勤務している家庭に引き取ってもらったり病院にも負担は大きかった。春と秋になると猫の出産ラッシュであちらこちらで仔猫が風邪をひいて調子が悪いと親切な人が病院に置いていってくれた。その後の責任を持たないことに怒りを感じたことも多かった。都内でも人口の増加とともに衛生面で野良猫が増えると糞尿で迷惑している、鳴き声がうるさい、病気を持っているなどの理由で苦情が増えこれ以上増やさないために去勢手術と避妊手術を進めて将来的に増えないようにと助成金が出るようになった。こうして一部の地域猫と呼ばれるある程度餌付けのできる野生の猫を捕獲器で捕らえて手術を推進してくれる動物愛護の方々の協力もあり20年位経過したのが現在の東京都である。


毎シーズンになると偏りがあり、今年は茶トラが多いとかサバトラの子が多いとか決まって子猫に多い少ないという傾向が見られた。しかし今のように猫を飼いたいという人が出産数より上回ることはなかった。貰い手を探すのもやっとだった。

動物愛護団体の活動も全国に広まり、ネットやメディアでの情報発信が増えて手術をすることが可哀想な猫を増やさないという意識が定着してきた。それはとても素晴らしいことだと思う。しかし今になってこれだけ姿を見かけなくなり、ペットショップか猫カフェでしか猫を見ないことも異常ではなかろうか?と最近になって思い始めた。人間になつきやすく可愛いし外でウロウロしている猫はみんな可哀想。保健所に連れて行かれて処分されるのは可哀想。

はて?とふと思った。

犬にも猫にも生きる権利は自分で決められないのか・・・。

外で暮らしていると人に迷惑をかける。

例えば、犬は狂犬病という人畜共通伝染病の概念から早くに保健所で処分され、残ったのは家畜化された犬のみ。ブリーダーやペットショップから購入し飼い慣らされた動物だけ愛玩動物として生きていける価値があり、ちゃんとした飼い主のいない犬や猫には生きる権利さえ奪われているんだ、と最近になって強く感じている。命の選別をしているのは明らかに人間だった。全ては自分たちが傷付かず、安心できるために種を根絶やしにしている。そう感じている。まだ地方では野生の犬や猫がたくさんいるから大丈夫だと思う人も多いと思う。しかし確実に都内ではいない。人しかいない。私の知っている世界ではなくなっていて、そこらじゅうに糞尿が落ちてもいないし野犬に噛まれたりしない。心配することのない綺麗な世界だ。しかしこれは本当に綺麗な世界なんだろうか?

ちょっとわからなくなってきている。

人間だけが安心して暮らせる世界が良いものなのか?

確かに日本は島国で狂犬病などの媒介をする犬が一掃されれば心配はいらない。

私は小さい時に犬に何度も噛まれて怪我をしている。今ほど従順な動物も少なく体のどこかには傷や咬み傷があった。でも嫌いになれなかった。それでも愛おしかった。彼らから見たら人は怖い生き物だから。それは立場が違うだけのこと。彼らと共に共存できる世界を模索するために獣医師を希望した、と大学受験の時の面接で言ったことを私は忘れていない。今の世界が果たして望んだ「共存」の世界だったろうか。

ではどうしたら良かったのか?これにもはっきりとした答えは出せないでいる自分に苛立っている。

しかし動物愛護という点ではもう少し考え直すべきだと思う。

全ての犬や猫が人間に支配されていなくてもいいのではないだろうか?

増やさないことも大切だが減らしすぎない選択も必要だと考えている。犬や猫は多産系だかいくら去勢・避妊しても構わない、というならば私たちは彼らをこの世界から全く排除して完璧に絶滅させる道を歩んでいるのかもしれない。私は悲しい。日本猫や日本の固有犬種を根絶やしにするために仕事をしてきたわけではない。

これからの課題としては動物愛護という観念を去勢・避妊で増やさない以外に考え直さないと近い将来レッドデータにリストインするかもしれない。





本当の命の大切さとは?


猫の島でも老猫しか居なくなっているという話も入ってくる。

増えないように努力した結果である。

しかし後2〜3年後には猫は居なくなるのだろう。

いくら猫は繁殖力が強いと言ってもそれにも増して生まれないようにしたら全てはいなくなる。

残るのはいつも人間だけ。

確実に弱いものの命を摘み取り、全てを奪い続けるまでやめない。まるで今のロシアとウクライナの関係のようだ。例えが悪いかもしれないが一方的に「悪」だという主張を掲げて虐げる、人間の本質とは理性があっても残虐性の根本はDNAに組み込まれているのだろうと思う。それを「善」として行っていてもそれが全て正しいとは限らないし、望んでいるばかりの人ではないのが多様性ではないのか?


人間の周りから近しい動物がいなくなった世界。

人間にだけ慣れるものを大切にしてそうでない命は全て絶つ、という考えは本当は恐ろしいことではないのか?と問いたい。


自然や動物から学ぶことは多く、今の子供たちも犬や猫を飼っていないと命とはどのように変化していくのかを学べない。触れることで感じる命の大切さや生きることの辛さや苦しみ、失うことの辛さを経験できないと人間同士のコミュニケーションの重要さや何故命が尊いものなのかを体感できない。これはネットでも本でも人から聞いたとしても伝わらない大切な第六感だと思う。いくら情報が溢れても、AIが発達しても感じ取れない大切な本能。私はそう認識している。


最後に。

サーベイランスという言葉をご存知だろうか?

今は疫病観点から使用されていることが多いが、野生動物を管理する上では重要な言葉だ。

どこでどのような生物が生息しているか個体数の把握を監視する。

例えば、鹿や猿などの害獣指定されている動物たちの個体数を監視し、一定の被害をもたらすくらいの群が増えたら猟友会などの人達の手で減らす。

増えすぎず、減らしすぎず、生息地の棲み分けをするサーベイランスをする組織がないとあっという間に全てを駆逐してしまう。

人間は一度「悪」と決めつけると徹底的に無くすまでやり遂げようとする極端な生き物だ。

多分「平和」という言葉はそういう横暴、凶暴性を抑制するための「理性」なのだと思う。


この文章を読んでくださる方がどれだけいるかは不明だが、私は確かに感じている。

2022年。

これから先、人間たちがどういう方向で生きていこうとするのかマクロの観点からも視野に入れて行かないと生き残れないだろう。人間至上主義を目指し、他の生物のことも大切にして行かないと身を滅ぼすこととなろう。

これは脅しではなく警告。

私たちの未来への警告。





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