今を生きて。
「今日も同じ一日」はそうではない事に無意識になりすぎているように感じる。
例えば身近な例では新型コロナウィルスの蔓延でマスクが売れ過ぎてどこにも売っていない、昨日まではあったのに!など、思わね所で日常風景が非日常になる。おかげで転売目的で非常識な高値がつき手に入らない。
そんな感じ。
何につけても絶対や当たり前は存在しない。
何が起こるかなんて誰にもわからない。
つまりは今日も変わりなくとてつもなくつまらない一日は貴重な24時間なのである。
無事に過ごせた穏やかで変わらない日常ほど有難い事はないことを意識して生きている人が少なくなり過ぎているような気がしてならない。
日本は島国で国境もなく、紛争も戦争も争いもなく比較的に平和に過ごしているから気づきにくい。マスクやトイレットペーパー、ティッシュペーパーなど普段から少しずつ買い足して余分気味に保管しておく事をしてないのだなぁと実感する。その時になって慌ててなくなる前に買わなくてはいけない直前になって買いだめする心理、理解できないわけではないがストックをする習慣はいつからなくなったのだろうか?24時間営業しているお店が多いし、品揃えも常に豊富だ。ちょっと行けばお店があるから大丈夫、なんだろうなぁと思う。
私が一人暮らしをしてほぼほぼ20時間くらい労働させられていた頃はお店に買いに行くヒマもなく、いつ開いているお店に行けるかわからない生活が続いていた。休みも2週間〜3週間もまともにもらえず働き詰めの事も多く、たまの休みに生活必需品は多目に買う癖がある。真夜中に急に気付いたら無かった、という失態をしているから行ける時にちょこちょこと買っておく。もちろんストックすると場所が狭くなるが背に腹は変えられない。でもいずれは使うことになるし腐らないので備えてある。
そう。本当はミニマリスト、なんていってお洒落な生活をしてみたいのだがなかなか上手くいかない。けれどこういう非常事態にはやたら強い。困らないのである。
花粉症の人やアレルギーを抱えていたり、免疫力の低下を伴う糖尿病などの疾患を持っている人は特に大変では?と思う。まぁ、そういう人は私のようにストックが多目にあるのだろうけれど。
何か考えている事と違う話になってしまった。
物の在庫もそうであるが命もまた限りがある。
昨日までは健康だったのに今日亡くなる可能性もある。
病気も然り、不慮の事故なあうかもしれない。
それのせめぎ合いばかりで私の心は壊れてしまった。
人間だっていつ何時、命の危機が訪れるかわからないのに動物に至ってはさらに分かりづらい。
本能で体の異常(痛みや苦しさなど)を隠す習性を持っている。すなわち、弱みを見せると自然界では生きていけないからだ。動かなければ強敵に捕食されやすくなる。痛くても辛くても隠しながら逃げなくてはならない。それが生物の本能。飼い慣らされているからといって全ての動物が弱音を吐く訳でもないし、弱っている姿を人が感じとれている訳でもない。サインを見逃していたり気づかなかったりするのだ。
側にいる人が気づかなければごく稀にしかお会いしない獣医師は命に危険があると気がついて飼い主さんにお伝えしてもなかなか信じてもらえない。そして命の灯火が消えてしまうと何だか私達の治療が悪かったように言われる。本当に私には荷が重かった。肉体的にも精神的にも辛かった。
さて。
動物だって明日も元気でいられるかわからないし、人間だって同じ生物なので明日も同時刻に元気で生存できているかなんて保障は全くない。明日も無事だと言い切れる人ほど、状況が真逆になった時にパニックになりやすい。リスクを常に感じておらず、いつでも幸せである事を感じていないからだ。
毎日同じように命の危機を感じなかった一日に感謝しなくてはいけないのだから。
「それ」は、いつくるかわからない。
だからやりたい事はやれる時にして、会いたい人には連絡をとり会っておく、知りたい事は調べられるうちに知っておく。
つまりは1秒1秒を大事に過ごす事が大事なのだ。
死んでしまった後には何も出来ない。
それとどんな人でもどこかであなたが亡くなってしまった事で哀しむ人がいる事も忘れないで欲しい。そんな事はないというけれど、人生の中で関わってきた人達の中にはあなたの訃報に辛い気持ちになる人は必ずいる。
そんな人はいない、と思うでしょ?
うまく伝えられないけど、あなたの遺した足跡の先にいる事を忘れないで。
こう書いている私も明日にはいないかもしれないし、あと数十年いるかもしれない。
誰にもわからない。
だからこの文を読んで頂いた人には伝わって欲しいと強く願っている。
今を生きて。